怒られたら消すが。

http://news.livedoor.com/article/detail/7858447/

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130715-00000523-san-bus_all

同じ記事なのに、タイトルが違う。
Yahooのほうは、
世界中に開発ソフトを無償配布 任天堂、WiiU販売不振で危機感あらわ

livedoorのほうは、
ゲーム開発“誰でもOK” 任天堂、WiiU向けソフト世界で無償提供

どうやら、Yahooのほうは、産経MSNから持ってきた物っぽい。
なんでたたくのかなー。
WiiUの販売が不振である、っていう基準はどこなんだろう?WiiUが売れていない、っていうなら、SonyのVitaちゃんは息してないレベルだと思うけど。

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 任天堂が、家庭用ゲーム機「WiiU(ウィー・ユー)」向けのゲームを開発するソフト(開発ツール)の無償配布を国内外で始めた。ゲームの開発ツールは、これまで事前登録したソフト会社のみに配布されており有償だったが、個人でも登録すれば無償で利用できる仕組みを導入した。同社は「スーパーマリオブラザーズ」のように長年、消費者の支持を集めるソフトが継続的に投入できない悪循環に陥り、WiiUの販売が低迷している。世界中のプログラマーに無償提供することで、開発者の門戸を広げてソフト不足を解消する狙いだ。

 任天堂は今春からWiiU用の新たな開発ツールを導入。うち、プログラミング言語の「HTML5」や「ジャバスクリプト」など比較的簡易な言語を使ってゲームが開発できるソフトの無償供与を始めた。

 これまでWiiUのゲームは、HTML5などのプログラミング言語では作成できなかった。新たなツールはインターネットで登録すれば、個人でも利用できるほか、開発したソフトは任天堂や国内外のゲーム会社に自由に売り込める。

 すでに日米のほか、新興国プログラマーからも同社に問い合わせが相次いでおり「既存のアイデアに縛られない斬新なゲームが生まれる」(関係者)と期待の声が上がっている。

 ゲーム機メーカーでは、マイクロソフトが開発ツールを学生には無償で提供している。また、ソニーは携帯ゲーム機向けの開発ツールを個人にも提供している。任天堂はソフト開発者の裾野を拡大することで、業績回復を急ぐ考えだ。


全米を揺るがせたジマーマン無罪判決の意味

銃社会という言葉は好きじゃない。
よって、別の言葉を探すほうがよろしかろうとまず提言する。僕はセンスが無いので、書き出せない。

さて。
人を高確率で簡単に殺せる道具を正当に保持できる社会である限り、何をどうしようと、命に関わる暴力からの絶対回避方法は、先手必勝となる。
そのような社会では、自己を守るために法律が最大化した場合、このような法律がどこかで生まれる。
このような法律をなくすことよりも、形骸化させるほうが、社会全体にかかるストレスは少ないと思う。

人を高確率で簡単に殺せる道具を、特定の人間しか持ち得ないようにすれば良いのではないだろうか。
きちんと登録証が必要になり、道具の置き場所と管理場所を定義しなければ、それだけで重罪になれば良いのではないだろうか。
社会全体のセキュリティレベルを上昇させる施策は実施され続けているわけだから、そのような文化とするしかない。
そして、そのような文化を断絶させる、そのような文化を無視するのが、移民なのだ、というのであれば、移民側はその文化に迎合すべきであるし、受け入れ側はその文化を共有しない人物を送還するべきであって、そのレイヤーでこそストレスが掛る社会になるべきであると思う。

これはべき論であって、現実論ではない。
しかし、誰かが言い続けなければそうはならないし、皆がそうあろうと思わなければ、そうなりはしない。

自分だけが良ければ良い、という考えは、巡り巡って自分に返ってくる。
それがこの事件の根っこだと、日本人である僕は思う。
これを、因果応報という。
すべての物事には原因があって、その原因によって応じ、報いられるという言葉だ。
自警団にも黒人青年にも、原因はなかろう。しかし、彼らがそうあった事には原因があるのだ。
その原因を断つしかない。
その原因があったがために、日本人としては不思議な、以下のようなことが起きている。

・なぜ彼は深夜パーカーのフードを被っていたのか。
・なぜ自警団は死んでしまった黒人青年に付きまとったのか。
・付きまとわれた黒人青年はなぜ穏便に、言ってしまえば、プライドを捨てて、摩擦を回避しなかったのか。

日本人の感覚では、理解ができない。
たぶん、この感覚は、海外の人には理解できない。
日本人は、この摩擦が、このような結果になることが分かっているからだ。

戦国時代という、300年にも及ぶ内乱を繰り返してきた我々には、鞘当て、という言葉が伝わっている。
刀の鞘が当たったならば、その場で戦いが起きるのだ。刀はプライドの象徴である。
プライドを押し通す結果は、命のやりとりしかないのだ。

自警団には自警団のプライドが、黒人青年には黒人青年のプライドがあろう。
そんなことはみんな分かっているのだ。だから、命を左右できる道具を持っている時、プライドをぶつけてはならない。
撃ってみろ、なんてサムライの前で言ったら、殺されるに決まっているのだ。
撃ってみろという言葉には、「撃てないお前など怖くない。いつでもやり返せる」という意図を感じ取らせるからだ。

閑話休題

話を元に戻すと、どのような状態でも、プライドをぶつけてしまう文化が原因なのだ。
その文化を変えてしまえ。
日本人は変える事が出来た。
ならば、世界においても、変えられないわけがない。
人種差別だと抗議する前に、子供のことを思うがいい。
そもそも彼らのために、少しでも安全な世界を求めるならば、隣にいる人間の、肌の色や、信じる神や、しゃべる言葉や、クリスマスをどう過ごすかなど、瑣末な問題だ。
そうだろう?子を持つ親ならば、プライドを捨てられるだろう?こだわりを捨てられるだろう?
じゃあ、個人でも、プライドなど、捨てられるだろう?

隣にいる人に優しくしよう。
隣の隣の人には笑いかけよう。
遠くの人には祈りをささげよう。

できる限りで良いから。

憎しみの連鎖は、そういう諦めでしか断ち切れないよ。

 2012年2月に、フロリダ州サンフォード町で発生した銃撃事件は、発生直後から全国的に大きく取り上げられてきました。被害者はトレイボン・マーティン君という17歳の黒人の少年で、銃撃したのはジョージ・ジマーマンという現在29歳の若者です。このジマーマンという青年は、住宅地の「自警ボランティア」をしていました。

 事件は午後7時過ぎに、フードをかぶって歩いていたマーティン君に対して、ジマーマンがおそらくは「コイツは怪しい」と思った、あるいは自警ボランティアの「職務に忠実であろうとした」ために、マーティンに対して「つきまとい」的な行動をしたようです。

 そのジマーマンの行動をおそらくは不快に思ったマーティン君と、ジマーマンはやがて「取っ組み合いのケンカ」に至り、ジマーマンは武装していなかったマーティン君を射殺してしまいました。こうした事件の場合には、フロリダ州では「正当防衛法(スタンド・オン・ユア・グラウンド・ロー)」が適用されます。

 これは、ケンカがエスカレートしないように回避の努力をしたとか、自分に身の危険が迫っているという客観的な理由があるといった正当防衛の認定要件「なし」で撃ってしまっても起訴どころか逮捕もされないというものです。南部を中心とした地域独特の法律ですが、今回の初動ではこの法律が適用されています。

 その後、フロリダ州の検察は、第二級殺人もしくは傷害致死でジマーマンを起訴し、今回その大きな裁判が結審して、陪審の評決が行われたのです。検察側、弁護側の最終弁論の後、陪審員の評議は延々と行われ、金曜日には終わらずに週末の土曜日に突入、陪審員たちは「改めて物証のリストを吟味する」そして「殺人と傷害致死の法的な相違点について再確認する」など慎重を期した結果、土曜日の夜の10時になってようやく判決を下しました。結果は「無罪」でした。

 これを受けて、地元サンフォードではマーティン君の支持者による「平和的な抗議集会」が行われ、翌日の日曜日には、SNSを通じた「フラッシュ・モブ」形式で、NYのタイムズ・スクエアや、LAのハイウエィなどで車道にデモ隊が乗り出して交通を一時遮断する形でのデモが行われました。

 デモが拡大する中で、オバマ大統領自身が世論に対して「平静であれ」というメッセージを出す事態となっています。一部のメディアは「人種の分断再び」などとセンセーショナルな見出しを掲げています。現在のところ、デモ隊は、激しい行動は自制していますし、車道の交通が妨げられる程度のことでは、各市の警察も非常に穏便な対応を続けています。西海岸の一部では激しい動きもあるようですが、全米としては淡々と秩序だった中で緊張感が持続しているという感じです。

 しかしながら、今回の事件に関してリアクションがここまで拡大したのは、メディアの対応に問題があったように思います。まず、事件直後にはセンセーショナルな報道が続きました。例えばメディアとしても、仮にこれが「白人が黒人を撃った」事件であれば、社会問題として対立がエスカレートする危険をある程度回避していたかもしれないのです。

 ですが、撃ったのがヒスパニック系であり、それもフロリダ州の大勢力であるキューバ系ではなく、ペルー系とドイツ系の両親を持つジマーマンという「エスニック的には孤立した存在」ということで、メディアとしては「取り上げやすさ」を感じていたのかもしれません。当初からのセンセーショナルな報道にはそうした計算も見え隠れします。

 一方で、良し悪しは別にしても、フロリダの「正当防衛法」に照らして考えれば「ジマーマンがマーティン君を怪しいと思っていたかどうか」というのはお構いなしに「撃った瞬間にジマーマンが身の危険を主観的に感じていた」のであれば「撃って構わないし、本来は逮捕も起訴もされない」というのが法的には正当になるわけです。そうした特殊な法律があるにも関わらず、そのフロリダ州の法廷でジマーマンを有罪にできるとか、判決には人種問題が関わっているというイメージを与えたメディアの姿勢にも問題があると思います。

 では、ジマーマンがマーティン君を殺したのは「仕方がなかった」のかというと、そんなことはないわけで、基本的に警察でも何でもない「自警ボランティア」が銃で武装できるという銃規制の問題が根本にはあるのです。無茶苦茶な「正当防衛法」も、単に「取っ組み合いになった場合の正当防衛」ではなく、「そこに銃がある」ために「命のやり取りになってしまう」そのことが異常なのであり、また問題にしていかなくてはならないのです。ですが、アメリカ社会は、問題が「銃」にあるということから、今回も目を背けています。

 今回はフロリダの刑法による刑事法廷での判決となったわけですが、連邦の検察としては「ヘイトクライム」による「公民権侵害」事犯として刑事訴追できないかを検討中のようです。但し、この訴追に関してはテクニカルに相当難しいと言われています。その次には、亡くなったマーティン君の家族の側が、ジマーマンを民事で訴えることになり、O・J・シンプソン事件のように「刑事は無罪でも民事では多額の賠償責任」という「裁き」になる可能性はあります。

 ちなみに、これだけメディアの露出がされれば、90年代であればもっと激しい騒ぎになったかもしれないと思うと、今回の「判決抗議デモ」には、これでも相当な自制が感じられます。その点に関しては、やや救いを感じる部分もあるのですが、問題の根っこにある「銃」の問題に向き合えないということには、やはり激しい失望感を感じざるを得ません。

冷泉彰彦(作家・ジャーナリスト)