思った事のメモ

テクノロジーによって生み出される道具は、基本、人間の機能拡張ではないので、人それぞれ、という当たり前の結論以外あり得ないはず。
人間の機能拡張に至れるテクノロジーのみが、「なぜそれをつかうのかか?」というお題にかける価値がある。
技術の発展によって人類は進化してきた!と言いますが、人類自体は生物的に何ら進化したわけではない。変化はしただろうが。
次は、発展しすぎた技術を制御するために、人類自体が生物的に進化するフェイズが来るはず。
良く言われるのは脳直だが、脳直に至れなくとも、超効率的な精神修養法がトライアンドエラー集合知によって(これは各文明圏によって到達し易い方法論が異なると思われるため)導き出されれば、人体にバックドアを設定する事無く、技術を制御化に置けるはず。
よって、現在が情報技術の時代とされるならば、次代は、精神の時代と言えるはずだ。より、精神的に、もしくは、感情的に振れ幅の少ない精神を確立した人間にとっては、とても住みやすい、雑多な情報があふれかえり、確認しなければならないものが複数存在する世界になるだろう。
とどのつまり、人と会っていても、デバイスを手離す事の出来ないクズだけが生き残れる。
でも、それでは種としての終焉に近しい。生物的な接触の前に必ずデバイス(機械)が立ちはだかる(デバイスはプライベートスペースとみなされるはずだ。現時点ですら、携帯を他人に見られる事をかなりの人が嫌悪する)。
一旦、あらゆる物を見限る事ができれば、良いのかもしれないけど。
それには、そうできるだけの経験と思考が必要だ。
人と会っている時に、デバイスから手を離せないようなクズには、絶対にさせたくない。だが、そのクズと付き合っていかなければならない。
ならばいっそ、クズにしてしまった方が、幸せなのかもしれない。