LINEというかコミュニケーションツール全般について

LINEは手軽なだけで、問題は、コミュニケーションツール自体にある。

何が問題かと言えば、常に同質の誰かといる感覚、という、社会性を持つ生命体として、最も心地が良い感覚を常時得続けることである。
もしくは、承認欲求を手軽に満たしやすいところにある。

脳内の働きは判らないが、これで脳内麻薬が出力されているのであれば、コミュニケーションをすることに意味を見出してしまう。
すると、コミュニケーションする必要のない時にもコミュニケーションを要求し、誰かに属していることを要求し、個体としての能力に疑問が出てしまう。
また、「正しい振る舞い」を得ようとするがために、情報交換を繰り返すようになる。

未知に対して正答を求める、という、全く矛盾した行動なのだが、これが未知への不安による行動と見れば、納得できなくもないが、
上記状況を踏まえて考えると、うらぶれた路地でシンナー吸ってるのと何が違うんだ、と思える。

確信があれば、未知への不安は、「ああ。友達も一緒だし、何とかなるだろう」もしくは「自分の能力ならば、何とかなるだろう」と楽観視できるものだ。
楽観視できない、ところに、問題の本質がある。
何かをたたくのはどれだけ知性が低くても共感できるアジり方だが、本来は、なぜ、彼ら彼女らはLINEを使うのだろうか、という点を見るべきだろう。
みんなやってるから=やらないと不安だから=仲間外れにされるかも?悪口を言われるかも?
という図式が成り立つならば、仲間外れにされたところで何なのか、という心と、悪口、意地悪をされたところでどうということはない体を得ればよい。

そうせざるを得なかったすべての蔑まれた者たちに敬意を表し、私は闘うことをお勧めする。

そうやって世界を再定義してみると、闘わない者たちは、どうやって闘う者たちを支えればよいのか、いずれ見えてくるのではなかろうか。