Thinkpad

トラックパッドの操作性を改善するか、付いてないモデルを真剣に考えた方が良い。

企業ユースからのトラックパッド搭載要望は、一般ユースのトラックパッド使いからの要望であり、
開発者からすると、「くそ要望」の一つである。
※ 何でもかんでも検索できた方が良いよねとか、後で変更可能なようにDBモデルは正規化しないでとか、
  良く判らんけど管理画面のデザインは明るくポップにして、みたいな。

あとファンクションキー+HomeとEndがなくなってるとか、どうにもならないと思うの。
頼むよ、Thinkpadは、そういうところに向けるモデルと、そうじゃないモデルで進んでほしいのだよ。

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ダウンロード数って支持率ですよねって出てくるのが、吐き気がする。
アクティブユーザー数だろ。ごまかすなよ。
アクティブ率が取れるものと取れないものがあるわけで、クライアントで完結するゲームなんかは、
利用数を取るためだけに通信させようとか気がくるってるとしか思えない。

久々に

山本一郎氏がどっかの記事で、ベビーカー持ったまま無料バスに乗れなかった、この運転手意識低い!とか書いてましたけど、原因が本人の足が痛くなったことと、子供が歩き疲れたかららしく、そんならなんで車で行かなかったんだろうという普通の突っ込みを入れたかったんですが、都市部にお住まいの方たちは、車が不要な生活になれてしまっていて、それが普通だからなんでしょうね。
そこ都市部じゃないので、車乗ってください。
判ってないのはそっちだよ。

あと、シリアスゲームのすれ違いがどうのうとか、プロのゲームデザイナーが入ってないからじゃないかなー。
デザインだから、学問するものではないのだけど。
や、学問する点は、「効率性」であって、ゲーム自体は分解するところなんて、コスティキャンのテキストで十分じゃねぇ?

追記
http://www.critiqueofgames.net/data/vol.13_inoueakito.pdf
にらめっこはコンピューターゲームになるだろうか、とのこと。
そもそも、遊びとは、ゲームとは、という定義についての、論理を突き詰めようとしているのかな、この人は。
にらめっこをそのままコンピューターゲームにしようという認識自体が、ゲームデザインから外れている。
にらめっこは、対戦できてない。
にらめっこをゲームととらえると、対戦相手がいて成立する、と考えるだろう。
という事は、プレイヤー同氏が正しく双方を視認しなければならない。
しかし、変な顔をするときは、より目をしたり、白目を見せたりして、対戦相手を見ないという戦法もある。とすると、対戦は成り立っていない。ルール的に考えると、ずるをしているわけである。
その場合、その場の空気だけで吹き出すかどうかになり、双方を視認するという最低限のルールすら守られていない。
ゆえに、対戦としては成り立っていない。
だからあれはゲームではない。
て、レベルの人が「ゲームとは!?」とか言ってるわけで、ゲームとはなんて考える事ねージャンと思うんですが、どうなんですかね。
ゲーミフィケーションとか、ゲームニクスとか、きちんと考えればわかるだろ、というレイヤーな気がしていて、基礎研究として大いに突き詰めていき、人類の英知に貢献していただきたいが、応用研究には早すぎる、というか、当たり前臭がしていて、戸惑う。

陰謀論

陰謀論を、リアルで久しぶりに聞いた。
前に聞いたのは、母方の爺様からだった。スパイが俺を見張っているって。年だったからなぁ。

でも、ガチでいるんだなぁ、と思いました。

HAARP地震兵器なんて、俺が中学の時のネタですよ。。。年食ってからサブカルに染まるって、こんなに害悪ばっかりなんですね。

やっぱり、インターネットは免許制にするべきですね。

あと、なんか、ナチュラルなんたらが大好きな人達は、病院行かないでくださいね。あなた方が嫌いな化学合成品ばっかりですから^^

陰謀論を「単純に」振りかざす人たちは、思考停止しているんですよ。ふつう、恥ずかしくて、言えないはずなんです。
だって、立証難しいから。
たまに立証できちゃう人がいるわけですが。。。ex)陰謀のセオリー
つまり、映画化するようなレベルのことだってことです。

我々は、一つ一つ、何が真実化を自ら突き詰めざるを得ない世界に、インターネットのせいで、ほおりこまれました。
常々思っていたのは、常に情報が流動し、かつ個人も配信可能となるところでは、情報の価値はいったん0になってから、
「どこかの誰かの手によって価値づけされる」ってことです。

とすると、その情報の価値は、だれによって価値を付けられたのか、どのように価値を認められたのかを、自ら確認しなければなりません。

もしかしたら、以前からそうだったのかもしれませんが、特定の企業が配信を担保していた状況では、その企業は嘘を書かないことに価値があったわけで、
検証方法なども一緒に挙げるなど努力をしていました。

しかし、現状はそうすべき点がありません。
なぜなら、無料で検証する連中は居るし、有料より無料で配信するのは居るし、企業として、努力するポイントを見失ってしまったと思います。

結果、あらゆる情報を、まず【嘘だろう】と決めつけ、自分で検証する癖がつきました。

こんな癖を子供に伝えなければならない世界は、幸せなんでしょうか。とても疑問に思えます。

よく終末系とか、パニック系とかで、「人類には早すぎた」みたいなセリフがありますが、まさにインターネットはそれだと思います。

社会性を持つ知的生命体としての成熟度が不足している。

不特定多数が流動的に情報を扱う場に、情報を配信するとは、どういうことなのかという理解が、全く欠落している。
つまり、配信する情報は、検証済みのものでなければならず、再検証可能なものでなければならないのです。
そうすることで、思い込みや誤読や、悪意的解釈を排し、純粋にそれが何かを伝えることができるのです。

信頼がないから、他人を疑う。疑うから、陰謀に感じる。だから陰謀論が生まれる。
ダメスパイラルだと思います。
どうやって打破すればいいのか、想像もつきませんが、やれることと言ったら、こうやって、どこかの誰かの目につきゃ良いかな、と思って書き散らすだけです。
ちなみに私のこのテキストには、検証済みであることの証明も、再検証可能な情報もありません。
これは、情報の配信ではなく、提言であるからです。
提言であるならば、それは議論されるものであるため、検証は不要です。

という言い訳まで書いてアップ。

ワロタ

すげぇw
http://t-proj.jp/twitter/?q=%E5%AE%89%E9%83%A8

総理そんなに嫌いかw

戦争ができることと、戦争をすることは、別なのだけど。それは。

金属バットを振り回していた、というのと、金属バットで素振りを繰り返してた、では印象が異なるように。

戦場で殺せないっていうなら、殺さなきゃいいじゃない?
何言ってんの?
ちなみに、日本が戦争をはじめなかったとしても、戦争を始められてしまえば、誰だったって戦地にいることにされてしまうので、
どうにもならないですね。
後、なんで徴兵制が始まる前提の発言が多いんだろう?
徴兵するより募兵する方がモラルが高くて精強な軍隊なので、ツイッターに書き込んでいるようなのは、いらない人たちだと思いますがそれは、とか。
ま、かように、できないこととできるけどしないことの違いを理解してないというか。

端的に、バカなんだなぁ、と思う次第です。

あ、あと、再生可能エネルギーに全力の人たちも、トランスの仕様を聞いたら、ああ、バカだな、と思いました。丸。

第二次大戦中の日本軍についうてぶーくさいう人たち全員に言いたいこ

アジアに対してひどいことしたよね、って人たちは、実際に酷い事を見聞きしてきたんだろうか。
あれだけ物資がなく、人口が特に多いわけでもない日本において、当初戦線を広げていった正規軍のモラルがクズ以下であった、
という大前提がかなり怪しい気がしているのだが、どうなんだろう?
日中戦争の後半なら、まぁ、わからんでもないのですが。
とすると、ごく特定の地域において、ごく特定の部隊や人員による戦争時犯罪が起きたであろうことはわかるのだけど、
なんかもう、大日本帝国軍人は全員クズであるというのは、その大日本帝国軍人を曾祖父に持つ俺からすると、とてもじゃないが、
承服しかねる。

よって、戦争時犯罪を断罪するために必要不可欠な、証拠がほしい。
私は日本人なので、罪が、咎があるならば、それを雪ぎたい。
そして恥を知るので、証拠もなく中傷してくる者たちには、同じく恥を知って頂きたい。

と、まぁ、従軍慰安婦を自称される方々を擁護する人のブログを読んで思いましたとさ。

LINEというかコミュニケーションツール全般について

LINEは手軽なだけで、問題は、コミュニケーションツール自体にある。

何が問題かと言えば、常に同質の誰かといる感覚、という、社会性を持つ生命体として、最も心地が良い感覚を常時得続けることである。
もしくは、承認欲求を手軽に満たしやすいところにある。

脳内の働きは判らないが、これで脳内麻薬が出力されているのであれば、コミュニケーションをすることに意味を見出してしまう。
すると、コミュニケーションする必要のない時にもコミュニケーションを要求し、誰かに属していることを要求し、個体としての能力に疑問が出てしまう。
また、「正しい振る舞い」を得ようとするがために、情報交換を繰り返すようになる。

未知に対して正答を求める、という、全く矛盾した行動なのだが、これが未知への不安による行動と見れば、納得できなくもないが、
上記状況を踏まえて考えると、うらぶれた路地でシンナー吸ってるのと何が違うんだ、と思える。

確信があれば、未知への不安は、「ああ。友達も一緒だし、何とかなるだろう」もしくは「自分の能力ならば、何とかなるだろう」と楽観視できるものだ。
楽観視できない、ところに、問題の本質がある。
何かをたたくのはどれだけ知性が低くても共感できるアジり方だが、本来は、なぜ、彼ら彼女らはLINEを使うのだろうか、という点を見るべきだろう。
みんなやってるから=やらないと不安だから=仲間外れにされるかも?悪口を言われるかも?
という図式が成り立つならば、仲間外れにされたところで何なのか、という心と、悪口、意地悪をされたところでどうということはない体を得ればよい。

そうせざるを得なかったすべての蔑まれた者たちに敬意を表し、私は闘うことをお勧めする。

そうやって世界を再定義してみると、闘わない者たちは、どうやって闘う者たちを支えればよいのか、いずれ見えてくるのではなかろうか。